SECTION 01
リスクの定義と分類 ― 純粋リスクと投機的リスク
リスクとは、望ましくない事柄に関連して発生する損失またはその可能性 のこと。発生要因と性質によって、まず純粋リスク と投機的リスク に二分される。
リスク :望ましくない事柄に関連して発生する損失またはその可能性。
①純粋リスク :自然科学的な要因による。損失を生むだけ。
②投機的リスク :経済・社会・政治的要因に基づく。リスクへの対応が成功すれば利益をあげることが可能。失敗すれば損失を被る。経営成長のために講じる経営戦略に関連したリスクも投機的リスク。
Type 01
純粋リスク
自然科学的な要因によって発生するリスク。
結果は「損失」のみ。 利益を生むことはない。
主要な対応手段は保険
農業は自然環境の影響を強く受けるため重要
Type 02
投機的リスク
経済・社会・政治的要因に基づくリスク。経営戦略に関連するリスクも含む。
成功 → 利益 / 失敗 → 損失。 結果は両方向。
経営成長のための経営戦略 に関連
近年、影響が増大している
表1 ― その他のリスクの分類
リスクの発生要因による分類
災害・事故リスク
経営リスク
制度リスク
―
リスクによる損失による分類
財物リスク
賠償責任リスク
休業リスク
人的リスク
出典:
木南章(2000) 「農業経営の外部環境のマネジメント」
農業経営研究 38巻4号, pp.15–23.
J-STAGE で読む
リスクは「発生要因」「損失の性質」「性質(純粋/投機的)」など複数の軸で分類できる。同じ事象でも、どの軸から見るかで分類が変わる。
SECTION 02
リスク・マネジメントの必要性 ― 何もしなくてもリスクは発生する
農業経営を取り巻く環境の変化だけでなく、経営成長のための経営戦略を実施すること によってもリスクは拡大する。リスクを処理する活動がリスク・マネジメント である。
環境変化の下では、経営者が何もしなくてもリスクは発生する。リスク対応に失敗すれば、経営の基盤・存続そのものが危機に陥る。リスク処理の意思決定と実施を組織的に行うことがリスク・マネジメントである。
従来の農業経営におけるリスク認識は純粋リスクが中心 であった。農業は自然環境の影響を強く受けるため、主要なリスク・マネジメント手段は保険 であった。
しかし、経営環境の変化や事業多角化など、投機的リスクが経営に与える影響が増大 している。リスク・マネジメントを経営戦略の中に位置付ける必要性が高まっている。
大企業においても、新規事業の成功率は3割程度。 事業の成功だけではなく、事業が失敗した場合を想定したマネジメントが重要である。
農業経営を取り巻く環境の変化だけでなく、経営成長のための経営戦略を実施することによってもリスクは拡大。
環境変化の下では何もしなくてもリスクは発生 → リスク対応の失敗 → 経営の基盤・存続の危機。
リスクを処理すること=リスク・マネジメント 。
SECTION 03
取引の最適化とリスク ― 取引コスト経済学の視点
取引コストとは、経済取引を実施する際に要するコスト 。リスク・マネジメントを論じる際の前提として、取引コスト経済学のフレームを導入する。
取引コスト経済学の前提
人間行動について限定的合理性 と機会主義 を仮定する。取引環境に関連する要因として、以下の3つが存在する。
① 関係特定的な資産
その取引相手とだけ価値を持つ資産。他の用途への転用が難しい投資。
② 不確実性
取引の結果や相手の行動について事前に予測できない度合い。
③ 取引頻度
同じ相手との取引が繰り返される度合い。
⇒ 取引コストを最小にする取引様式を選択する 。これが取引最適化の基本原理。
オペレーショナル・リスク
取引相手との情報の非対称性、目的の相違から生じる恐れがある手抜き を監視し、契約上の協定を強制するための費用。
機会リスク
関係特定的な資産への投資 に伴う機会主義的行動によるリスク。
取引コストはリスクと密接な関係にある。 調整費用も取引リスクも、究極的にはリスクが顕在化することへの備えのコストである。
取引の最適化のための条件
Condition 01
① リスク・プレミアム
個々のリスクの規模(潜在的利益と損失)、およびリスク一般に対する人々の態度(固有の慎重さや冒険心)に依存している。
Condition 02
② 努力水準の反応
個々の努力水準の、業績に基づくインセンティブに対する反応。
SECTION 04
野菜作における経営安定化と販売価格決定(表2・表3)
取引コスト・リスクの議論を、農業の実務に落とし込んだ事例が野菜作の経営安定化手段と販売価格決定方法 である。木南(2000)に基づく。
表2「野菜作における経営安定化の手段」 および表3「野菜作における販売価格の決定方法」 は、配布 PDF 上では画像として掲載されており、本図解側ではテキストとして表内容を再現できない。
表のタイトル・出所のみを記し、内訳は原資料(木南 2000)を直接参照されたい。
出典:
木南章(2000) 「農業経営の外部環境のマネジメント」
農業経営研究 38巻4号, pp.15–23.
J-STAGE で読む
木南先生の研究から ― 外部環境のマネジメント
木南先生は、農業経営の外部環境のマネジメント を主題に、野菜作経営の安定化手段と販売価格決定の関係を整理している。リスク・マネジメントは保険による損失補填だけではなく、取引様式の選択 そのものがリスク対応であるという視点である。
本講義の表1〜表3 はいずれも本論文に依拠しており、本講義のリスク論の出発点となる文献である。
木南章(2000)「農業経営の外部環境のマネジメント 」農業経営研究 38巻4号, pp.15–23.
J-STAGE で読む
SECTION 05
リスク・マネジメントのプロセス ― マネジメント・サイクル
リスク・マネジメントは「発見・確認 → 分析・評価 → 処理手段の選択・実施 → 成果の評価」 という4ステップのサイクルで運用される。
01
リスクの 発見・確認
どのようなリスクが存在するかを洗い出す
02
リスクの 分析・評価
発生頻度と強度(損失規模)を算定する
03
処理手段の 選択・実施
コントロールとファイナンスを組み合わせる
04
処理成果の 評価
次サイクルへのフィードバック
リスクの分析・評価 ― 2軸での優先順位付け
様々なリスクの発生頻度 と強度(損失の規模) を算定し、高頻度・高強度のリスクを集中的に管理 することが必要となる。すべてのリスクに同等の資源を割くのではなく、優先度をつける。
リスク処理手段の2大区分
Handling 01
① リスク・コントロール
リスクの発生を抑え、リスクが発生した場合に被る損失を最小限に留めること。
Handling 02
② リスク・ファイナンス
リスクが発生して損害が生じた場合に必要となる資金繰り をあらかじめ計画して準備すること。
コントロールとファイナンスは排他的ではなく相補的 に組み合わせて使う。
SECTION 06
リスク・コントロール ― 6つの手段(表4)
リスク・コントロールは 回避・予防・軽減・分散・結合・移転 の6手段に整理される。リスクの種類と経営の体力に応じて選択・組み合わせる。
表4 ― リスク・コントロールの手段
手段
内容
例
リスクの回避
リスクが高い活動の中止
生産の中止
リスクの予防
リスク発生頻度を抑制
耐病性品種の導入
リスクの軽減
安全対策の実施
薬品の使用
リスクの分散
事業多角化などによって損失軽減
多角化
リスクの結合
リスクの集中化による管理
カルテルの締結
リスクの移転
契約によりリスクを他者に移転
契約販売
「回避 」は事業そのものをやめる選択肢であり、最後の手段。「移転 」(契約販売など)と「分散 」(多角化)は、農業経営においてもっとも実装余地が大きい手段である。
SECTION 07
リスク・ファイナンス ― 3つの手段(表5)
リスク・ファイナンスは 保険・リスクの相殺・リスクの保有 の3手段。発生後の資金繰りをあらかじめ設計する。
表5 ― リスク・ファイナンスの手段
手段
内容
例
保険
共済・基金なども含む
作物共済
リスクの相殺
リスクを転嫁
先物取引
リスクの保有
リスクへの準備、自家保険
余裕資金の準備
「リスクの保有 」とは、敢えてリスクを引き受け、損失が発生したときに自己資金で対処すること。余裕資金の準備 が前提条件となる。
SECTION 08
農産物加工事業におけるリスク・マネジメントの実態(表6〜表10)
経営者は、費用と効果の点から最適なリスク処理手段を選択しなければならない。投機的リスクの場合は、リスク・マネジメントは 生産管理・販売管理・財務管理・労務管理など部門管理 の中で併せて実施される場合が多い。
事例:農産物加工事業
農産物加工事業(大規模な農業法人や農協による事業)におけるリスクとリスク・マネジメントの実態を、全国農業構造改善協会(2001)の調査をもとに整理する。表6〜表10 は同調査からの引用。
出典:『平成12年度 アグリベンチャー支援推進事業報告書』全国農業構造改善協会, 2001
表6 ― リスクの発生状況と対策(回答数)
有効回答数 62
リスク項目
リスク発生
損失発生
不安あり
対策あり
賠償責任リスク
異物混入・食中毒 6 4 58 35
店舗等での過失 3 0 41 23
契約不履行 1 1 16 3
環境汚染 0 0 19 1
収益減少リスク
原料等の供給停止 0 0 15 4
出荷・販売の停止 2 0 24 7
製品の回収 12 8 43 21
営業の停止 1 0 51 18
不良債権の発生 15 14 35 9
収穫量の低減 18 13 45 13
市場価格の低落 9 8 39 8
「不安あり」は多いが「対策あり」は少ない 傾向が読み取れる。異物混入・食中毒は 58/62 が不安に挙げる一方、対策実施は 35。リスク認知と対策実施の間に大きな差がある。
表7 ― リスク・マネジメントの体制
有効回答数 62
リスク・マネジメントの担当
回答数
個別対応 25
担当者を決めている 18
担当部署を決めている 14
意識していない 5
外部の人材活用
活用している 10
活用していない 52
リスクマネジメントの体制が個別的・自己完結的であることの限界。 外部人材を活用していない経営が 52/62 を占める。
表8 ― 製品に関するリスク対策
有効回答数 44(自由回答を整理)
リスク対策
回答数
従業員の訓練・講習会の実施 20
消毒の徹底 15
品質管理の徹底 9
検査の実施 7
施設の整備・改善 4
HACCP への取り組み 2
責任体制の明確化 1
食品衛生法に基づく各種届出 1
気象情報の購入 1
リスク対策は基本的事項が中心であり、組織・システムの改革に至るものは少ない。
表9 ― リスク・ファイナンスによる対策
有効回答数 45
リスク項目
保険への加入
自己資金の保有
資金の借入
その他
計
賠償責任リスク
異物混入・食中毒 37 0 0 1 38
店舗等での過失 28 0 1 1 30
契約不履行 0 2 2 3 7
環境汚染 3 0 2 2 7
収益減少リスク
原料等の供給停止 0 3 2 3 8
出荷・販売の停止 1 3 2 3 9
製品の回収 17 3 1 3 24
営業の停止等 22 2 2 2 28
不良債権の発生 0 10 1 6 17
収穫量の低減 7 3 1 3 14
市場価格の低落 2 2 2 3 9
賠償責任リスク(異物混入・食中毒、店舗での過失)は保険が中心、収益減少リスク(不良債権、収穫量低減)は自己資金保有が中心 という二分構造が読み取れる。リスクの性質に応じてファイナンス手段が使い分けられている。
表10 ― リスク・マネジメントの問題
有効回答数 62
問題点
回答数
コスト負担が難しい 28
社内に専門知識を有する人材がいない 23
ノウハウがない 23
リスク・マネジメントに対する関心が低い 20
その他(自由回答を整理) 20
リスク・マネジメントは、大企業でも十分な対応ができていない。 農業経営の場合、経営規模が小さく、リスク・マネジメントの担当部署や専門家の確保は困難である。経営者自らがリスクに対する理解を深める必要がある。
必要に応じて専門家にアドバイスを求め、リスク・マネジメントに必要な手段を整備することが重要である。
実際にリスクの発生に直面した場合:経営が社会からの認知を確立しているかどうか が重要。社会に認知されるには、ステイクホルダーと経営倫理 が鍵となる。
SECTION 09
農業における保険制度 ― 農業共済と収入保険
リスク・ファイナンスの中心的手段が保険である。日本の農業経営には、農業共済(1947年〜) と収入保険(2019年〜) の2系統が存在する。
Since 1947
① 農業共済
保険実施主体:都道府県ごとの農業共済組合等
保険の種類:収穫共済に3種類
農作物共済(水稲、麦、陸稲)
果樹共済
畑作物共済
特徴: 特定の農産物を対象とし、風水害、干害、冷害、雪害、病虫害、鳥獣害等の自然災害に起因する収量減少 による収入の減少分を補填する。
Since 2019
② 収入保険
保険実施主体:全国農業共済組合連合会
加入対象: 青色申告を行っている農業経営者
自然災害等による収量減少だけではない
市場価格の低下
けがや病気による収穫不能
倉庫の浸水や盗難等による農業収入の減少
こうした要因を幅広く補填 する
共通の制度設計
どちらも、国が保険事業の経費や保険料の一部を負担し 、保険責任の大半を再保険の形で分担 する。
表11 ― 農作物共済の引受方式
表11「農作物共済の引受方式」 は配布 PDF 上で画像表として掲載されており、本図解側ではテキストとして表内容を再現できない。
ここでは原資料に付された脚注(*1〜*5)の定義のみを示す。
表11 脚注 ― 引受方式に関わる用語の定義
*1 平年収穫量 のことで、組合等が組合員等又は耕地ごとに設定。
*2 統計単収 が市町村別に公表される農作物(水稲及び麦)にあっては市町村の区域、都道府県別に公表される農作物(陸稲)にあっては都道府県の区域。
*3 作物統計調査規則 第4条第3項の収穫量調査に基づく単位面積当たりの作物の種類別収穫量 。
*4 統計単位地域の過去一定年間における統計単収の平均値(最近5か年中中庸3か年平均 )。
*5 平年的な生産金額 のことで、組合等が組合員等ごとに設定。
「収入保険の仕組み」(PDF p.19) および「収入保険に加入した理由」(PDF p.20) も画像として掲載されており、本図解側ではテキスト化できない。詳細は配布 PDF 原本を参照されたい。
農業共済は「収量」 をトリガーとする品目別保険、収入保険は「農業収入全体」 をトリガーとする青色申告者向けの包括型保険。両者は補完関係にあり、経営の規模・品目・税務形態に応じて選択される。
SECTION 10
プロスペクト理論 ― 利得より損失を重大に捉える
リスク対応の最適化は、人間の合理性を前提とする。しかし実際の意思決定は置かれた状況によって価値の感じ方が異なり、利得よりも損失の方を重大に捉える 。これがプロスペクト理論。
Question 01
問1 ― AとBのどちらを選ぶ?
A
確実に 100万円 が手に入る。
期待値 = 100万円(確実)
B
50% の確率で 200万円 が手に入り、50% の確率で 0円 。
期待値 = 100万円(リスクあり)
Question 02
問2 ― 200万円の負債を抱えている状況で AとBのどちらを選ぶ?
A
負債が 100万円 に減額される。
期待値 = -100万円(確実)
B
負債が 50% の確率で 全額免除 、50% の確率で 減額されない 。
期待値 = -100万円(リスクあり)
プロスペクト理論:価値関数 V
不確実性下での意思決定の際、置かれた状況によって価値の感じ方が異なる。リファレンス・ポイントを基点として、利得側と損失側で価値の上昇/下落の感じ方が異なる S 字曲線で表される。
相対的な利益
相対的な損失
V(価値)↑
↓価値減少
リファレンス・ポイント
A:利益上昇後の価値上昇
B:損失増加後の価値下落
利益減少後の価値下落
損失減少後の価値上昇
利得側の価値曲線
損失側の価値曲線
リファレンス・ポイント
プロスペクト理論 :不確実性下での意思決定の際、置かれた状況によって価値の感じ方が異なり、利得よりも損失の方を重大に捉える 。
出典:Kahneman D., Tversky A. (1979). Prospect theory: An analysis of decisions under risk, Econometrica 47(2): 263–291.
SECTION 11
確率判断の歪みと許容リスク ― リスクは「客観確率」だけでは動かない
人間は論理的な確率に基づく判断から離れていく 。詳細さや想起しやすさが、確率の感覚を歪める。
Question 03
問3 ― 次の文章を読んで、最もありそうな選択肢を選んでください。
「リンダは31歳、独身で、意見を率直に言い、また非常に聡明です。彼女は哲学を専攻していました。学生時代、差別や社会正義の問題に深く関心を持ち、反核デモにも参加していました。」
b
リンダは 銀行員であり、フェミニスト運動にも積極的 である。
示されている出来事が詳細であればあるほど、人間の感覚は論理的な確率に基づく判断から離れていく 。
出典:Tversky A., Kahneman D. (1983). Extensional versus intuitive reasoning: The conjunction fallacy in probability judgment, Psychological Review 90(4): 293–315.
Question 04
問4 ― アメリカにおいて、一生の間に遭遇する確率はどちらの方が高いと思いますか?
人間は、頻繁に起きるものは、簡単に、すぐに想起することができる 。例や事象の思いつきやすさ によって、生起頻度や確率を推測する。
問5 ― 確率0と認識できる確率は何 %?
Practical Threshold
1 / 1,000,000
「確率=0」と認識できる確率として、「100万分の1」 がリスクの下限として設定されることが多い。
ただし、得られる便益によって、許容リスクは変化する 。
本章で扱った3つの認知特性
Bias 01
状況依存の価値評価
同じ期待値でも、置かれた状況(利得局面/損失局面)によって価値の感じ方が異なる。利得より損失を重大に捉える。
Bias 02
詳細さによる確率感覚の乖離
事象が詳細に描写されるほど、論理的確率から離れて主観的にもっともらしく感じる(リンダ問題)。
Bias 03
想起しやすさで確率を推測
頻繁に起きるものは想起しやすい。逆に、印象的で想起しやすい事例は確率以上に頻繁だと感じやすい。
農業経営におけるリスク・マネジメントは、客観確率に基づく合理的設計 と、それを歪める主観確率の認知特性 の双方を前提にする必要がある。「不安あり」と「対策あり」の数字が乖離する(表6)背景にも、この主観/客観のギャップがある。